エムエスツデー 2009年10月号

衣食住−電 ものがたり

第19回 気象と天空とそして自然は

深 町 一 彦

 昔の冗談に、河豚を食べるときに、測候所・測候所と唱えながら食べると当たらないという話があります。現代なら、テレビの天気予報キャスターの名前を唱えることになるのでしょうか。はるか遠い天体の運行は、昔から正確な予測がなされ、時計と一体になった天球儀も製作され、何百年も先の夜空を予測することもできていたのに、直ぐ身近な気象、海面から昇った蒸気が液化して落ちてくるだけの物理現象の予測がなぜ難しいのでしょう。

物理法則どおりなのに

 問題へのアプローチは、アメリカのローレンツという気象学者が発見した現象が始まりといわれています。ローレンツ変換のヘンドリック・ローレンツとは別人です。1917年生まれで、戦後はマサチューセッツ工科大学で、コンピュータを駆使して気象の数値モデルを作るのに貢献がありました。

 1961年のある日、いくつかの観測点からのデータから、気象の変化をシミュレートするモデルを作り、それをコンピュータ上で計算していました。確認のため、もう一度同じ計算をコンピュータに入力して、計算が進行している間コーヒーを飲みに行き戻ってきてみると、先ほどとまったく違う曲線が現れていることを知り愕然とします。何度確かめてもシミュレーションの曲線は、始めは当然同じ出発点から、同じような変化をたどりながら、徐々に乖離して、時間が経過するほどに、上昇と下降の山と谷が逆転する場面すら出てきました。

 この違いは、最初の計算のときに入れた観測データに対して、2度目の計算では有効数字を3桁で切り捨てて入力したことにありました。多分、当時のコンピュータのことですから、演算速度が節約できるなどの理由だったのでしょう。その結果、初期データが約5千分の1小さくなっただけなのに、逐次計算の時間経過とともに、晴天と土砂降りほどにも違いが広がって行ったものでした。計測において「真値」というものは概念上のもので、我々の計測データは、必ず誤差の存在を前提にしなければなりません。観測点を多くして、入力データの計測精度を高くしてゆけば、短期的な予報精度は上がりますが、長期的な予測については本質的に変わりません。わずかな誤差が気象の連鎖反応の結果、天と地ほどもの差となって現れてくることがあります。

 こうした気象の連鎖反応に「バタフライ効果」という言葉も生まれました。北京で蝶が羽ばたきすると、そのわずかな風が、次々と新しい連鎖を生み、数週間後にはニューヨークでは暴風になる可能性もあり得るという意味です。

 ニュートン以来、シンプルな法則のもと地上も宇宙も整然と秩序を保って運行していて、初期値が分かればあとは理論どおり進行して、計測データの精度と充足、計算速度の向上と相俟って、総ての事象は予測できるというのが科学の基本思想でした。事実、多くの事象が矛盾なく、そのことを実証してきました。それが、特別新しい法則や理論を取り込んだものではなく、逐次計算を続けてゆくと、その初期値の極めてわずかの差に鋭敏に反応して、最後はまったく異なったものになる現象があり得るということは、自然科学思想にとって衝撃的な事態でした。カオスと呼ばれる新しい科学のジャンルです。カオスの研究は、複雑系と呼ばれる新しいジャンルへと拡大してゆきます。

 こんなことは、パチンコ屋に行けば誰でも体験することです。釘に当たる弾の微妙な違いが、次の跳ね返りを大きく変えて、いくら熟練しても、同じ軌跡で同じ穴に続けて入ることは皆無に近いです。また、ふとした運命の曲がり角を歩みだすと、次々と新しい運命に遭遇して、もはや後戻りができないことも、多くの人生が体験済みのことです。時間の不可逆性とも関わる話です。

実は天体も

図1 悠久の運動にも複雑な相互影響の陰が

 秋の空と何とやらは気紛れで、お天気が予測しがたいのは仕方がないとして、悠久の動きを続ける天体も、実は完全に予測どおりには運行していないのです(図1)。私たちが教えられたニュートンの力学もケプラーの法則も、太陽と地球、太陽と木星といったように、2つの質点の間の力学ですが、当然ながら木星と地球の間にも、太陽との引力とは比べ物にならないが引力が働いているはずです。事実、その影響で、完全な楕円軌道を描いているだけではない微妙な動きが観測されています。3個以上の質点同士の運動は三体問題(多体問題)といって、数式を立てても一般的な解法がなく、長い間、数学者や物理学者が苦闘してきました。その中の一人には、ソニア・コワレフスカヤ(1850~1891)もいました。この女性は父権と家の束縛を離れるために結婚し、マリー・キュリーより少し早く、多分女性では始めての数学の教授になり業績を残しています。女性の社会活動の先駆として象徴的な人です。余談ですが、ノーベル賞に数学部門がないのは、創設者ノーベルがコワレフスカヤに失恋したからだという俗説もあります。

 18世紀の終わり頃には、ポアンカレーが「解を求めることができない」という証明を発表したそうです。最近ではコンピュータの助けを借りて、力ずくで数値計算を繰り返して近似解を得ています。不滅の法則に支配されて整然と運行していると信じられてきた天空さえ、そのまったく同じ法則のもとにあって、完全な予測はできない現象があるということは興味深いことです。

 太陽の質量が圧倒的に大きいので、惑星同士の引力が運行に及ぼす影響は非常に小さく、見上げる夜空が変わってしまうようなことはありません。幸いにして惑星の運行周期の比率が相互に無理数なので、定期的に接近を繰り返して、徐々に軌道に影響を与えやがては・・・などといったことは、今のところ生じていません。小惑星や宇宙塵は時々衝突します。

当たり前な法則の相乗効果

 たった3個の質量系の運動でさえこんなに大変なのでは、数多くのものがひしめき合っている私たちの身の回りはかなり大変です。当たり前の法則に支配されていても、相互に影響を与え合う要素が数多くあると、単にその重ね合わせ以上の相乗効果を生じて、思いもかけぬ現象が見られます。

図2 小鳥の群れ

 小鳥の群れが、大空を右に左に見事な編隊飛行をしているのは、リーダーシップのある親分鳥が命令を出して統率しているのでしょうか(図2)。クレイグ・レイノルズの有名な実験があります。コンピュータ上で、次のような3つのルールだけを設定して、画面上に小鳥に擬した点をいくつか置き、勝手に遊ばせました。

 ・ 近くの鳥たちの数の多い方に行こうとする
 ・ 近くにいる鳥たちと飛ぶ速さと方向を合わせようとする
 ・ 他の鳥や障害物に衝突しそうになったら離れようとする

 画面上に放たれた仮想上の小鳥たちは、実物の小鳥の群れと見分けがつかないほど、整然と群れを成しながら、障害物を巧みに避けつつ、嬉々として画面上を飛び回ったのでした。この技法は、後に、アニメ映画やCG映像を作るツールにまで発展しました。

 少々皮肉な実験ですが、我々人間も群衆の一人として、この画像の点に似通った行動をしていると思いませんか。

 この実験は、単純なルールのもとでも複数の要素の集団が、自ら複雑な組織を形成してゆく過程を示唆して、生物はどうしてできたかという問題にまでも視野を広げてゆきます。

*   *   *

 このように複数の要素が相互に影響を及ぼしあっている系は、全体として思いもよらない動きを創発します。複雑系と呼ばれ20世紀終盤から始まった新しい研究分野で、これまで「複雑な世界を観察して単純な法則で説明する」ことを続けてきた科学観を一変させるものとして注目を集めています。

〈参考文献〉
・ 米沢 富美子 著、『複雑さを科学する』、岩波科学ライブラリー
・ 吉永 良正 著、『「複雑系」とは何か』、講談社現代新書


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