エムエスツデー 2009年1月号

衣食住−電 ものがたり

第10回 コンピュータと脳

深 町 一 彦

チューリングマシン

図1 チューリングマシンの原理図

 アラン・チューリングが1943年に、今日のコンピュータの基礎概念といわれるチューリングマシンという概念を英国で発表しました。図1のようなもので、テープの上に書き込み読み出しのできるヘッドを置き、テープの上では一駒ごとに情報があり、機械側に取り込んだり、書き込んだりして、機械の内部状態を変え、その上で、ヘッドをテープ上で一駒だけ動かすことができるという簡単なものです。この装置で、テープに無限の長さがあれば、コンピュータが行うような演算の総ては可能であるというものです。そういわれれば、そんな気がしますが、全くの原理としての先見性であって、実際に作られたわけではありません。コンピュータが実際に作られたのは、それから約10年後です。磁気記録媒体としても、ワイヤ型の録音機は19世紀からあったそうですが、磁気テープによる録音機は、その2年後1936年にドイツで発明されましたが、連合国側が知ったのは戦後のことだそうです。

 チューリングのこのマシンによって、アルゴリズムという概念が確立されたのだそうです。現在のコンピュータも突き詰めれば、このチューリングのマシンの原理に従っているといえるというのが定説です。

 チューリングは情報技術の開花に先駆けた天才で、数々の功績を残していますが、42歳のとき自宅で死んでいるのを発見されました。遺体の部屋には齧(かじ)りかけの林檎と多数の青酸の瓶が転がっていたそうです。なぞめいていますが、死因については公式な話は分かりません。

ノイマン型コンピュータ

 フォン・ノイマンについては余りにも有名で今更述べる話題もありませんが、プログラムもデータの一種とし、記憶装置の中に書き込み読み出しできるようにしたことが、今日のコンピュータ隆盛の引き金になりました。ただ、ハードウェア技術とソフトウェアが発達するにつれて、必要なメモリの量が膨大になり、その出入りに要する時間が処理速度を律するようになり、最近は、非ノイマン型コンピュータなどという言葉も語られるようになってきてはいますが、次の決定打はまだ出ていません。

コンピュータは人間の脳に追いつくか

 電脳といわれるくらいコンピュータの知能は高く、人間が何年もかかる計算や論理処理を、あっという間に片付けてしまいますが、このままコンピュータ技術が進んで、演算速度が速くなり、記憶装置が大型高速になれば、やがては人の脳と同じような働きをするようになるのでしょうか。

 確かに、最近の人型ロボットの振る舞いは、ますます人間に近くなってきています。人間とコンピュータがチェスの試合をして、遂にコンピュータが一勝したなどという記事を見ると、コンピュータが段々人間に追いついているような感じもします。コンピュータが飛躍的に可能性を拡張していた時代、やがて人間の脳の働きは、総てコンピュータで代行させることができるようになると思われていた時代もあります。

 最近では、少なくとも人間の脳は、ノイマン型コンピュータでは達成できないと思われています。たとえば、チェスを戦わせても、コンピュータは総ての可能な手口を全部検証して次の一手を決めるので、坂田三吉の将棋のように、突然、持ち駒の銀を敵陣に打ち込むような決断はできません。有限の時間の中で、不充分な情報の中でも決断ができるのは、人間の特徴のひとつです。そもそも、寒いとか、美しいとか、好きになる、嫌いになるというものはコンピュータにはできないプログラムです。人間の脳の働きは、コンピュータの働きと根本的に構造が異なっているらしいです。

神 経 細 胞

 人間の脳は、数百億個といわれるニューロンと呼ばれる神経細胞が情報処理に当たっています。ニューロンは本体の細胞体の部分と、そこから棘のように生えている幾つにも分岐した樹状突起、それと長く伸びた一本の軸索と呼ばれる部分から成り立っています。

 軸索は、我々計装世界のものから見れば、細胞体から他の細胞体への、いわば送信ケーブルのようなもので、先端は枝分かれしています(マルチドロップのバスを想像します)。

図2 ニューロンとシナプスの概念図

 樹状突起は、それに対して軸索からの信号を受信するアンテナのようなものといえましょうか。軸索の先端は、受信側の樹状突起とナノレベルの間隔を挟んで化学物質で接続されています。細胞体がONになると(脳科学の世界では発火といっています)、電気的なパルスが軸索を伝わって、シナプスを介して、他の数千個ともいわれるニューロンと接続されているそうです(図2)。数百億のニューロン同士が複雑に相互に接続されていて、お互いにパルスを送りあっていますが、しかも、このシナプスは単なるパルスの伝達ではなく、アナログ的に独自に重み付けを行って伝達し、多くのシナプス経由の、重み付けされたパルスの刺激の総計が、その細胞体の一定の閾値を超えると、そのニューロンはON(発火)になるのだそうです。この重み付けはなかなか神秘的で、可塑性と呼ばれていますが、遺伝子によるものや、過去の記憶、日々の体験などによって形成されてゆくようです。

 時間をかけて情報に重み付けをしながら、膨大な量のニューロンとシナプス接続のネットワークによって、我々の脳は活動しています。

自 然 発 火

 コンピュータが、特定の計算や論理処理をするためにあらかじめデータやプログラムが提供されているのに対して、ニューロンは、自然発火といわれる外部の刺激とは無関係に神経活動をしていることが知られています。ニューロンの活動のうち、コンピュータの活動のような特定された論理作業を担当しているのは、全体の30%程度で、あとの70%は自然発火に伴う活動で、何をしているのか分からないのが実情だそうです。

 脳の活動に関する研究は、微小な電極と精巧な電気計測技術によって飛躍的に進歩しましたが、それでも、今までの研究は、コンピュータのような論理活動の部分が主で、いわゆる「心の働き」に関しては、まだほとんど分かっていません。

共存と棲み分け

 我々の脳の働きとコンピュータは、まだ比較できる段階にありませんが、一方コンピュータは、我々が生涯を費やしても完成しないような計算を、一晩のうちに処理してしまうような、スーパー能力を持っています。また、我々の感性を模倣した働きをプログラムすることもできます。このような優れものの人工物が傍らにあって、勤労の現場を奪いつつあるのも事実です。さて人間は何をすればよいのかという問いかけに対して、まだ万人にとって幸せをもたらす明確な答えは見出せていません。我々一人ひとりの課題になっています。

コンピュータと脳

〈参考・引用文献〉
茂木健一郎、田谷文彦 共著、
 「脳とコンピュータはどう違うか」、講談社
利根川 進 著、「私の脳科学講義」、
  岩波新書(新書)


ページトップへ戻る