エムエスツデー 2010年10月号

海外よもやま話

第4回 オクラホマとスポケーン

酒井ITビジネス研究所 代表 酒 井 寿 紀

 アメリカでも随分いろいろなところに行きましたが、今回はアメリカの本質に触れたように感じたところを2、3ご紹介します。

タルサのオクトーバーフェスト

 1987年に仕事でオクラホマ州のタルサに行きました。それは10月で、街はオクトーバーフェストというお祭りの最中でした。オクトーバーフェストはミュンヘンだけのものと思っていましたが、タルサにもあるというので行ってみました。

 街外れの広場には移動遊園地が設営されていて大変な賑わいでした。大テントの中はビヤホールになっていて、生バンドにあわせてジョッキを空けていました。

 屋台で「ポテト・パンケーキ」というジャガイモを擦りおろしてホットケーキ状にしたものを売っていたので、それを注文したところ、屋台のオバチャンが「これは『カルトッフェルプッファ(ドイツ語で「ジャガイモ菓子」)』と言うんです」と言うので、驚きました。前に、マンハイムのクリスマス市でこれを売っていて、それを買うために一生懸命名前を覚えました。まさかタルサでこの言葉を聞くとは思いませんでした。

 ビヤホールの雰囲気から、オバチャンの服装までまさにドイツでした。

 後で調べると、オクトーバーフェストは10か国以上で行われていて、アメリカだけでも大小合わせて100以上あるそうです。ドイツ人の移民が中心になって故郷を偲んで毎年開いているのでしょう。アメリカ人のうち、民族的に一番多いのはイングランド系やアイルランド系ではなくドイツ系だということも知りました。

 タルサにもドイツ系の人が数多く住んでいるのだと思います。アメリカは移民で成り立っている国だということを改めて感じました。

オクラホマのコンピュータ工場

 オクラホマ州のノーマンというところに私の勤務先の工場があったので立ち寄りました。ほとんど何もない大平原の中にぽつんと立っている日の丸の旗を目印にして目指す工場にたどり着きました。敷地の片隅に今は使われなくなった採油のポンプがまだ残っていて、この辺はかつて石油の産地だったことを示していました。

 ノーマンはオクラホマ・シティーの近郊の都市ですが、オクラホマ大学のほかたいしたものはないということで、その工場の人は「ロデオ殿堂」に案内してくれました。そこには歴代のロデオのチャンピオンが使ったきらびやかな鞍が部屋中に陳列してあって、アメリカではロデオのチャンピオンが野球やフットボールのスター選手同様英雄扱いされていることを知りました。

1927年のロデオのチャンピオン (出典:Wikipedia(英語版)−“Rodeo Hall of Fame”)

 ここには西部開拓に貢献した人々の説明や西部を題材にした美術品も展示されていました。オクラホマは地理的には東海岸と西海岸のほぼ中間ですが、文化的には西部の文化の中心地として扱われていることが分かりました。

 後日、日本でミネソタ州のローズヴィルの市長さんと会食する機会がありました。我々のコンピュータ工場がノーマンにあると話すと、その市長さんは大変驚いて、「なぜノーマンを選んだのですか?」と聞きます。あいまいな返事をしておくと、食事の後でまた同じ質問を繰り返されました。

 ローズヴィルはミネソタ州の中心のミネアポリス/セントポールのツイン・シティーに隣接する都市で、この地域は1960年代から70年代にかけてはアメリカのコンピュータ産業の一つの中心地でした。しかし、1980年代以降、シリコンバレーなど西海岸が主力になり、この地域のコンピュータ産業はすっかり下火になってしまいました。そのため、市長さんはコンピュータ産業などの誘致に力を入れているということでした。「シリコンバレーに比べれば、人件費も生活費もはるかに安い」とこの地域のメリットを強調していました。そこで、市長さんはノーマンがコンピュータ産業の誘致に成功した理由を是非知りたいと思ったのでしょう。再度の質問に、「社長の個人的な人間関係のためです」と答えて、やっと納得してもらいました。

 オクラホマ州が合衆国の46番目の州になったのは1907年で、テキサス州やカリフォルニア州より50年以上後です。20世紀の初頭に石油が発見されてから急速に人口が増えましたが、石油の産出が終わるとともにブームは去りました。

 ノーマンと聞いて市長さんがあまりに驚くので、こっちも驚きましたが、アメリカ人には炭鉱が閉山になって斜陽化した街にコンピュータ工場を建てたというような印象を与えているのかもしれません。

スポケーンの博物館

 スポケーン滝のスケッチスポケーンというのはワシントン州の東端に近い街です。1998年にここを訪れました。この街はコロンビア川の支流のスポケーン川の河岸にできた街で、街の真ん中にスポケーン滝という滝があります。

 スポケーンの歴史を展示してある博物館があるというので行ってみました。先史時代からの原住民の生活が展示されていました。このあたりにはスポケーン族という原住民が住んでいて狩猟生活を営んでいたということです。順路に従って次の部屋に入るとミシンや初期の電気製品が並んでいるので面食らいました。しかし、スポケーンで生活していた人の品物を時代順に並べればこうなるわけです。これはどこの植民地でも同じはずだと納得しました。

 博物館にはスポケーン族の酋長の下記のような談話が掲げられていました。「白人が我々に銃を売りつけ、我々はそれで狩猟するようになった。若者は銃に慣れ、弓矢を使えなくなってしまった。ところが白人はある日、銃の弾を売るのをやめた。我々はもはや昔のように弓矢で白人と戦うことができず、我々は敗れた。白人は汚い」

 この談話を掲示した人も多分白人だと思います。自分たちがしてきたことを正しく後世に伝えようとする姿勢には感銘を受けました。


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