エムエスツデー 2008年6月号

衣食住−電 ものがたり

第3回 電気エネルギー あかりと動力

深 町 一 彦

図1 ピクシーの発電機 1831年 ファラデーが電磁誘導の法則を発見し、翌1832年にはピクシーの手回し式発電機が開発されました(図1)。それまで電池の化学反応から作られていた電気エネルギーは機械動力から得られるようになり、大掛かりな発電装置が作られるようになりました。1870年にグラムが本格的な発電機を作り、電気エネルギー時代は夜明けを迎え、実用的な製品が続々と発明されました。1877年にはパリのオペラ座通りの街頭にアーク灯がともり、それまでのガス灯(メルヘンなイメージがありますが)の時代との交代が始まります。1879年には、シーメンスが最初の電気機関車を造っています。

きらびやかな夜

 電気から光を見つけたのは、英国のデービスが炭素電極を使ったアーク灯を発明したのが始まりです。1815年ボルタ電池をなんと2000個接続して、アーク灯の実験を披露したということです。多分点灯していたのは極めて短い時間だったと思います。アーク灯を本格的な「あかり」にするために電磁誘導の発電機の開発に拍車がかかりました。発電機と電動機の実用化は「鶏と卵」のような関係ですが、アーク灯に牽引される形で発電機の方が先行したようです。それまでガス灯が照明の主流でしたが何しろ危険で、1881年にはウィーンのオペラ座で爆発があり500人以上の犠牲者が出るなどしています。1870年代から1980年代にかけて、実用的な発電機が続々と作られるようになり、アーク灯は大きな劇場とか(電気溶接の光と同類で、狭い室内では眩しすぎます)、街燈として、とくに灯台ではなくてはならない光源となりました(図2)。

図2 銀座2 丁目の街灯にともったアーク灯

 電気が照明として花開いたのは、何といっても、有名なエジソンの白熱電球の発明です。エジソンは1878年、エジソン電気照明会社を設立します。1881年白熱電球ができると、その年パリのフランス電気博覧会に出展し、多数の電球のイルミネーションが人々の目を引き、多くのパビリオンの夜を演出しました。夜というもののイメージを一新する一歩でした。

 パリの電気博覧会では、発電機を持ち込んでのデモンストレーションでしたが、翌1882年には、ニューヨークのパール街に中央発電所と送電システムを持つ事業としての電気照明を開始します。動力源は往復動型の蒸気機関の火力発電でした。9月4日、パール街周辺の町並みに一斉に電灯がともり、人々は驚嘆したとのことです。

 この給電システムは直流で、エジソンはなぜか直流にこだわって、やがて後発のウェスティングハウスの交流システムと死闘を繰り広げることになります。両社の争いはまさに泥仕合で、犬や猫を高圧の交流で焼き殺して見せたり、交流を使って死刑囚の処刑が行われると非難宣伝するなど、熾烈な戦いのエピソードが残っています。しかし給電の広域化に伴い、変圧器を使う交流高圧送電の効率にかなわず、エジソンは直流方式を諦め電気事業から撤退します。高圧遠距離送電があって、後の水力発電時代に猪苗代湖発電所から東京に給電するなどということが可能になったわけです。

 しかし、エジソンが発電機や白熱電球といったハードウェアだけでなく、給電システムというビジネスモデルを構築したことは、衣食住−電の時代に向けた大きなステップでした。エジソン電気照明会社は後にエジソン総合電気となり、今日、世界最大のコングロマリット、ゼネラルエレクトリック社へと巨大化して行きます。

 その頃の日本では、1883年の7月に鹿鳴館が落成しています。同じ年に、藤岡市助などの主導で日本初めての電力供給会社、東京電灯が設立され1887年に日本初の一般供給用発電所が稼働を始めています。この東京電灯が最初に電気をともしたのは鹿鳴館だったそうです。1887年、落成から4年後のことです。

図3 日本で最初の白熱電球 1890年、その藤岡市助によって白熱舎(後の東京電気)が発足し、わが国一号の白熱電球が作られました(図3)。この会社は後に芝浦製作所と合併して、今日の東芝に至ります。

 マツダランプは有名でしたが、東芝の電球の商標でした。これはその時の社長の名前が松田某氏だったわけではなく、古代ペルシャの拝火教、ザラトストア教の神様の名前、アフラ・マツダから来たもので、光の象徴だそうです。MAZDAの名はエジソンから電球の技術と一緒にもらったものらしく、当時、世界的に電球の商標だったようです。後に東芝の真空管などにもマツダの商標が付いて、一種のブランド品でした。

三相交流給電システム

 1890年代に入り三相交流電力システムが確立して、簡単に回転磁界が得られるようになり、誘導電動機が普及したことが、単に「電気」の配送ではなく、「動力」の配送システムが確立したことを意味します。

 それまでの工業用動力は、水車でも蒸気機関でも、エネルギー源から作業位置まで、機械的な回転軸が伝達できる範囲を出ることができませんでした。電力は、エネルギー源と作業の場の位置関係を、完全に分離することを可能にしたのです。

機械的動力伝達の双方向性

 1873年 ウィーンの万国博で出展中の発電機に、誤って電流を接続してしまったところ発電機が回りだして、発電機と電動機は同じ構造のものだということが分かり、それがきっかけで電動機の実用時代になったという話です。発電機/電動機は、動きから電気へ、そして電気から動きへと双方向に比較的効率よく変換できます。

 機械動力の変換伝達の双方向性の利用のひとつは、揚水発電です。電力需要が少ないとき、余った電気は冷凍にしてクーラーに保管するというわけにはいかないので、揚水ポンプの駆動という機械的動力に変換し、ダムの水位というポテンシャルに変換して保存します。可逆式発電機では、水を逆流させて落とせば、揚水したときと同じ電動機−ポンプ系が、水車になり発電します。

 同じように、電気自動車・ハイブリッド自動車の特長は、減速やブレーキ時のエネルギーの回収にあります。制動時、モータは発電機となり、車の運動エネルギーを電気にして吸収し車は減速します。回収した電気エネルギーは2次電池の中の化学的エネルギーに変換して保存されます。以前から分かっていた原理ですが、優秀な2次電池が開発されて、急ブレーキをかけた時などに、とっさに大電流を受け取ることができるようになって、エネルギーの節減は更に進みました。

 電動自転車は下り坂でエネルギーをもらって上り坂で使うことで、空気の抵抗や摩擦がなければ、理論的には、差し引きゼロで元のところに帰宅できることになります。

 かなり以前から、鉄道では、回生制動といって電車が駅に入って減速するとき電動機は送電線より高い電圧を発電して、運動のエネルギーは送電線に返されて、他の電車が消費する電気と融通しあうことができています。

 加速と減速のたびに、同じ?電気を、出したり入れたりして何度も使うことができるというのは、なんとなく楽しい話ではないでしょうか。


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