エムエスツデー 2006年2月号

工場通信ネットワークのお話

第2回  壮大な失敗 MAP

NPO法人 日本プロフィバス協会 会長 元 吉 伸 一

 世の中、“壮大な失敗”というのは結構多くあります。たとえば、あの“万里の長城”もその一つかもしれません。中国北部からの外部侵攻をくい止めるために建設されたらしいのですが、実際はあまり役に立たなくて、むしろ国家の財政を危機状態に落とし、国の寿命を短くしたと聞いています。

 プロジェクトが失敗する原因はいろいろあるでしょう。その一つの原因は、後からみると、目的(または要求とかニーズともいえる)とそれを支える基盤(たとえば技術レベルとかシーズといえる)のバランスが取れていなかったということがありそうです。コンピュータの世界は、技術の進歩が目覚しいため、このバランスが簡単に崩れ、いくつもの“失敗”を繰り返し、そしてその失敗の反省が成功につながって、今日に至っているわけです。

 私たちが20年程度にわたる工場通信ネットワークを語るとき、短い歴史ながらも避けて通れないのが“MAP”の失敗です。そしてこの失敗は単なる失敗だけでなく、さまざまな教訓を私たちに残してくれ、この失敗があったからこそ、今日デジタル通信が産業現場に普及するきっかけになったとも言えるのです。

MAPとは

 MAP(Manufacturing Automation Protocol)は、アメリカのGM社が提唱した工場ネットワークです。

 GMからの発表によれば、1984年当時、GMの工場の中では、20,000台以上のPLC、2,800以上のロボットが設置され、インテリジェンスをもつデバイスの合計は40,000を超えていました。ところが、GMの製造工程のなかで15%しか、自分以外の工程と通信でやり取りできずに、たくさんのオートメーションの孤島(Islands of automation)ができているという状況でした。そのうえ、インテリジェントな機器はGM社内でも、その数を飛躍的に増やすこと(5年後に5倍)が予想されていたのです。MAPのプロジェクトは、これらの機器をつなぐための、マルチベンダ環境での統一的な通信プロトコルを作成することが目的でした。MAP V2.0は、速度10Mbps、同軸または光ケーブルを使用、アクセス制御はトークンパッシングと今日でも通用する仕様です。MAPという統一通信方法を作成することで、製造情報の円滑な伝達だけでなく、複雑な配線の統合による省配線、余分なハードウェアとインタフェースソフトの削減、同時にトレーニング費用も少なくできることが期待されたわけです。

 またGMは、MAPがGM独自のプロトコルとならないよう、さまざまなベンダ、ユーザーに呼びかけ、共同でMAPの仕様開発を進めました。つまり、MAPはISOのOSI(Open System Interconnection)のサブセットとして作成され、対応する通信レイヤの国際標準をできるだけ採用するようにしました。

 GMは将来MAPに準拠しない製品は購買しないとも宣言しました。GMは世界でもっとも購買力のあるオートメーションのユーザーでしたから、アメリカのメーカーだけでなく、ヨーロッパ、日本のベンダ、ユーザーがこぞってMAPの活動に参加しました。

 その活動の結果、アメリカでは、1984年にIBM、HP、モトローラ、DEC、グールド、アラン・ブラッドレーなどメーカー7社が共同で、MAPによる異機種相互接続のデモを公開しましたし、1988年にはENE'88i(Enterprise Network Event 1988 International)で、工場の発注、設計、製造、設備監視まで含めたトータルなネットワークデモを公開しました。

 日本でもMAPの推進団体をIROFA(財団法人国際ロボット・FAセンター)が担当し、1986年にはMAPの国際会議を日本で開催しました(図1)。

 そのときの日本のMAP委員会のメンバー( 約140社:情報会員を含む) を見てみますと、単に電気メーカー、コントロールメーカーだけでなく、コンピュータ会社、エンジニアリング会社、大学そして多数のユーザー会社も参加しています。

 MAPの目的に共鳴する会社がどれほど多かったかは驚くべきで、それがベンダだけでなくユーザーの熱い期待を受けていたことも特筆すべきです。

図1 1986年10月に東京で開催されたMAPジャパンミーティング

MAPが残したもの

 残念ながら、これだけの賛同を得て、また多くの方が努力しながらも、その後、MAPが必ずしも成功したとは言えませんでした。

 MAPの失敗原因はいろいろと言われています。一つには、MAPを支える技術レベルが十分にパワフルでなかったり、また技術的にはOKでも価格の面で十分にユーザー、ベンダの満足のいくレベルに達しなかったりしたことが大いにあると思います( たとえばこのころのパソコンとしてIBM PC/ATが有名ですが、このパソコンでもCPUのクロックは6MHz、メモリは640KB、HDDは10MBといったものでした。現在のパソコンが2GHzのクロック、1GBのメモリ、100GBのHDDをもちますから、当時の技術レベルが想像できます)。

 さて、MAPの失敗は工場ネットワークにどのような影響を与えたのでしょう?

 MAPが普及しなくても、工場の現場でのコンピュータ化の流れは止まりませんでした。制御用コンピュータ(PLC、DCS)およびマイクロプロセッサを使った機器が次々と開発され、各種機器間の通信の需要は増大していきました。ですから、工場ネットワークをやめるのではなく、実現可能なネットワークをいかに使いこなすかが課題になったように思います。たとえば、実現性が高いということで、オープンではなく、メーカー内の独自ネットワークがたくさん出てきました。

 MAPが残した影響として(異論もあると思いますが)、私は以下の点を挙げたいと思います。

 1.ネットワークはインフラであることが再認識された

 オートメーションの機器をつないでデータ、情報を自由に流すという発想は自然ですが、あくまで目的は“より制御性の高い、より運転しやすい、より柔軟な”製造システムの構築です。MAP活動のはじめのころは、異機種接続という今までにないプロジェクトということがあり、どちらかというとさまざまな機器を接続することに力が注がれていた感じがなきにしもあらずでした。MAP活動が続いていくと、何のためのネットワークかが厳しく追求されるようになったと感じます。

 2.技術レベルと目的のバランスがとれた仕様にする

 MAPは工場内の機器をすべて接続するという壮大な構想をもっていました。ただ、そのために、仕様が拡大して、当時の技術では、機器のコストが高いとか、スピードが十分には早くないとかの欠点が出てきました。1980年代の後半から1990年代初めに、MAP、とくに現場に近いミニMAPに対抗する手段として、フィールドバスが出てきます。ここでは、ネットワークのアプリケーション範囲を限定し、それにフィットした仕様を提供するという階層化の考えが一般的になってきました。

 この2つの教訓、ネットワークはインフラ、そして技術レベルと目的のバランスという考えをもとに、“接続要求はあるが、できるところからはじめる”という形で工場のネットワークは広がっていったのです。

 ところで、今日、Ethernetを使って工場の統一ネットワークを構築しようとする動きがあります。MAPの目的にやっと技術が追いついて、その理想を実現できる時代になってきたのかもしれません。

 この動きについては、また後ほど説明する予定です。

 “デジタル通信の良さは分かる”、“デジタル通信を採用するメリットも分かる”、しかし“工場現場に工場ネットワークの導入はどうするのか”という現状に対し、この連載の中で、何か回答に近いサジェスチョンを皆様とともに見つけていければ幸いであると考えます。


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