エムエスツデー 2009年8月号

衣食住−電 ものがたり

第17回 情報と記号、言語

深 町 一 彦

 情報というものは単独では存在できず、必ず発信者と受信者がいて、発信者が送る情報が受信者に理解されなくては、成り立ちません。情報は、発信者と受信者との間の共通の取り決めごとの上に成り立っています。

 簡単に考えても、話し手と聞き手が、共通に日本語が理解できないと、日本語のコミュニケーションは成り立ちません。情報は、言語化されないと通信の意味が生じません。この言語化という意味はかなり広義で、記号化といったほうが分かり易いかもしれません。

暗 号

図1 エニグマ(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 通信者を限定する目的で記号化を使うのが暗号です。電気通信、とくに無線通信は広域に交信できる便利さと引き換えに、傍受され易い通信手段です。暗号は通信の中でもとくに送受信者の間の取り決めごとを複雑にして、厳しく統制したものです。

 第二次世界大戦中、日本の暗号はほとんど米国の手で解読されていたという話は有名で、山本海軍司令長官が戦死したときも、飛行計画から編隊のどの機に乗っているかまで分かっていたという話です。

 有名なのは、同じ大戦中に使われたドイツのエニグマ(ENIGMA)という暗号機です(図1)。タイプライターくらいの大きさで暗号変換と解読ができました。ローターという円板の両面に26個の電気接点があり、裏表の間は配線で別の位置に接続されています。接続のパターンは数種類あり、その中から複数枚(初期のものは3枚)を選んで装着します。文字キーを押すと第1ローターの片側の接点に電流が流れ、順次それぞれのローターの配線のパターンに従って変換されて第3ローターから出力されると、レフレクタという配線で、また、第3ローターの別の接点に入り順次逆に伝わって、都合6回の変換を経て出力となり、ランプボードの文字ランプを点灯させます。1文字キーを押して変換すると、第1ローターが1字ずれて別の変換組み合わせになります。複数のローターは機械式カウンタのように、1つが一定回数移動すると順次繰り上がって移動してゆくので、膨大な変換の組み合わせを完成させます。ローターの組み合わせとスタート位置はあらかじめ決められ、日ごとに変わります。更に、プラグコードで電気的な接続を自在に変換できることで、変換された文字の組み合わせの可能性は天文学的な多様性をもっており、解読は極めて難しく、戦闘中に何台かのエニグマが連合軍の手に落ちて構造が分かっても、実際の通信の解読は困難でした。ヒットラーは最後までエニグマの暗号通信に自信を持っていたそうです。

 一方連合軍側は主として英国の情報局が中心になり、ポーランド経由で入手した実物や、捕虜や捕獲した兵器の中から取り出したコードブックなどを手掛かりに、解読に全力を挙げていました。先にも紹介したことがある天才数学者アラン・チューリングなどが集まり、統計と確率論を駆使して、解読の精度と速度を上げてゆきました。暗号を解読するために、当初は電気機械的な解読機が作られ、しらみつぶし的に暗号変換の可能性を検索していましたが、やがて、さらに高速で信号処理をする必要から、COLOSSUSという真空管式のコンピュータが作られました。今でいうエミュレータの役でしょうか。

 ENIACが世界最初のコンピュータといわれていますが、COLOSSUSは、それより数年早く開発されているのですが、エニグマの解読は戦時機密の中でも最高機密で、戦争が終わるや直ちに分解され、書類は焼かれ、情報は公開されませんでした。最近に至って、ようやく複製が作られたという話です。

 エニグマの暗号が連合軍側で解読可能になったということと、解読可能であるということが完全に秘密に保たれたことが、第二次世界大戦の勝敗に大きく影響したといわれています。

言語と記号化

 暗号が情報の発信者と受信者を厳しく限定して部外者に理解されないようにしてきたのに比べ、言語はむしろできるだけ解放的に大勢が共通に使用できることを目的としています。そのためのコード化が「言葉」と「文字」です。文字は記号と呼んだ方がより一般的でしょう。記号と言語は表裏一体のもので、我々の思考と緊密に結びついています。

 言語学は欧米で進んだので、文字と言葉の関係が表音文字(アルファベット)を念頭に考えられているのではないかと思われることがありますが、日本語では、言葉があって後から文字を、工夫して人為的に導入しています。万葉仮名では表意文字の漢字を表音文字として取り入れて言葉を表現しています。そのうち漢字の意味に日本語を当てはめて、訓読みという表現を発明しました。同様に、音読みの漢字を音だけを取り出して変形させて表音文字(ひらがな、カタカナ)を発明しています。多くの外国人(主に欧米人)は、まず漢字の種類の多さに驚きますが、表意文字の漢字を忘れたら、ひらがなで書けばよいという話をするともっと驚きます。漢字を導入した日本語は、会話の中でも、話し言葉を頭の中で視覚的な漢字と照合しながら話をしています。文字文明を巧みにハイブリッド化して使いこなしている日本語は、他に余り類を見ない優れた言語だと思います。

 余談ですが、ルーマニアにしばらく滞在したことがあります。ルーマニア語は、周りがスラブ語圏なのに、この国だけラテン語系でイタリア語に近いのですが、文字を導入するとき、qとpを混同したらしく、qという字がありません。そしてイタリア語では水はacqua(アクア)なのに対して、ルーマニアではapa(アパ)です。数字の4は、quattro(クァトロ)に対してpatru(パトル)です。どうも、後から導入された文字の間違えが、前から使っていた言葉のほうを変えてしまったようです。

楽 譜

図2 ネウマ譜(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 楽譜は、非常に高度な記号化の一例です。9世紀ごろ、ネウマ譜と呼ばれる楽譜が現れたようです(図2)。始めは、1本の横線の上に、曲線で音の高低や長さを示していたが、段々に線の数が増え、線上の記号もいろいろ工夫されてきました。カトリック系教会の聖歌は音域が1オクターブなので、今でも4線のネウマ譜が使われているそうです。合唱曲が作られるようになったのは、音程を記号化して、楽譜の上で検討できるようになったことからできたという話です。歴史の過程でいろいろな線数の楽譜があって中には8本などというものもあったそうですが、17世紀に入って、オペラ先進国のイタリアで楽譜を統一しようという動きが始まり、一目で判別し易いこと、様々な楽器の音程を表現できることから今日の5線譜が広まったということです。

数 式

 数式は、もちろん記号化された思考の極限のひとつです。科学に関与した先達たちは、この数式を駆使して、自然や宇宙を説明しようと長い苦闘を続けてきました。最も厳密な言語のひとつといわれ、数学は究極の詩ともいわれますが、ようやく微積分の単位を取って卒業したものは、頭を抱えて頷くのが精一杯です。

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 サイエンスとは、人類が自然を観察し言語化して表現し、共通に認識できるよう努力を続けてきた歴史でもあります。今回は、その言語と記号から話題を拾ってみました。


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