エムエスツデー 2008年11月号

衣食住−電 ものがたり

第8回 科学技術と社会環境 光と影

深 町 一 彦

 19世紀の後半、とくに最後の四半期は、ヨーロッパ文明はいわゆる世紀末と呼ばれる独特の爛熟を示します。同時に社会は行き詰まり感を深めてゆきます。技術と社会生活の関わりを歴史と見比べてみたいと思います。

あまりに急速な工業技術の進歩

図1 ロートレックが描いた「ムーラン・ルージュ」のポスター グラムの発電機が作られてからわずか30年、ヨーロッパは、1900年のパリ万博とそれに合わせて敷設された地下鉄、昼を欺く色とりどりな照明、ムーラン・ルージュの踊り子、それを描いたロートレックのポスター(図1)、美しい彩色を施したガレのガラス器、官能的なクリムトの絵画、などに象徴される絢爛たる輝きの中にありました。

 電力、鉄道、通信という工業インフラが整い、いわゆる列強国の工業力は大飛躍を遂げます。とくにドイツはルール地方の豊富な石炭を原料に、新しく発明された平炉や転炉による製鋼法の導入、化学工業の興隆など、急速に工業大国化してゆきました。

 同時に爛熟した文明の行き詰まり感も強まってゆきます。あまりに急速な産業の発展は、その裏側で貧困労働者を生み出し、プロレタリアと呼ばれる階層が急増します。19世紀末から20世紀にかけては自殺者が急増しています。

 この時代、ヨーロッパは専制王政の揺らぎが生じています。1871年には、パリで生活に困窮した民衆が蜂起して、パリコミューンという世界初の市民自治国家といわれるものが誕生し、2か月後に3万人といわれる死者を出して壊滅させられます。

図2 マルクスの資本論「DAS KAPITAL」第1 部 この時期、ヨーロッパは人口が急増していますが、資本の土地集約によって農業の生産性が向上し、工場労働者の比率が増えてゆきます。非常に劣悪な労働条件で働かざるを得ない人たちが増え、それを資本主義が抱える矛盾であると指摘したマルクスの「資本論」は1867年、第1部の初版が発行されました(図2)。繰り返し練り直され、納得が行くものに仕上がったのは1875年といわれています。さらに第2部、第3部まであり、マルクスの死後、エンゲルスの献身的な努力で完成しました。マルクスは非常に悪筆で、その遺稿はエンゲルスしか読めなかったという話です。

 ひとつの出版物に過ぎなかったマルクス/エンゲルスの思想は、その死後、帝政ロシアの崩壊と革命に際し、武闘を肯定するレーニンによって、「ロシア革命の指導理念」へと変貌し、レーニンの死後スターリンによって国家を統制する教条へとモンスター化して行きます。20世紀の世界を分けるキーワードへとなってゆき、社会主義国だけでなく、資本主義国にも様々な形の影響を残しました。

大戦の時代へ

 社会的な歪が溜まりきって過飽和状態にあった1914年、サラエボの街角でセルビアの青年がオーストリア−ハンガリー帝国の皇太子を暗殺した一発の銃弾が、あっという間に戦争の連鎖的拡大を引き起こし、世界を席巻する大戦争になってしまいました。

 普仏戦争以来、ヨーロッパでは40年ぶりの戦争ですが(1904年に日露戦争がありましたが、ヨーロッパ各国は直接関与はしていません)、その間に産業が急成長した各国は、複雑に絡み合った相互の利益関係も相俟って、ヨーロッパ全域に留まらず、広くアフリカ大陸や、中東、極東まで、各国の植民地にまで戦争を持ち込んでしまいました。日本も日英同盟に従って参戦しています。技術と工業力が格段に強大になった時代の戦争は、政治の手綱を振り切って暴走し始めました。

 工業力の進んだ各国は、総力を挙げて武器を開発・量産し、それまでとは全く様相の異なるいわゆる近代戦になりました。間断のない砲撃と機関銃の戦いが続き、身を守るために塹壕を掘り、数百万の若者が、敵味方互いに至近距離の塹壕から砲火を交し合い、何か月も緊張の中で対峙させられていました。レマルクの「西部戦線異状なし(1927年)」は、フランス戦線で塹壕の中でドイツの若者パウルが、様々な戦場体験を重ねながら、戦死するまでを、あたかも日常生活を語るが如くに描いたものです。主人公が戦死したその日の司令部報告には「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」とのみ書かれていたというのが題名の由来です。

 塹壕を乗り越えるために戦車もこの大戦中に登場しています。無線通信は当然のことでした。ライト兄弟の飛行から12年しか経っていないのに、今日的な飛行機の形は定着し、ドイツのフォッカーEⅢという戦闘機は、操縦席から撃つ機銃の弾が、自分のプロペラの間を通るという同期式射撃機能を備えていました。このフォッカーはドイツの敗戦で航空機の生産ができなくなるとオランダに移り、後にフレンドシップ機で有名なフォッカー社を設立します。

 この大戦で既にドイツの潜水艦Uボートも、イギリスの海上封鎖に対向して海底からの攻撃を行っています。潜水中の動力源になる鉛蓄電池は、既に1859年に量産が始まっています。

 毒ガス(ホスゲン)が使われました。空気より比重の重いホスゲンは、染み入るように塹壕の中の兵士たちを殺し、それによる死者は第一次世界大戦の戦死者の80%にも達するともいわれています。これは今日の原爆使用にも匹敵する残虐な行為で、戦後、1925年にはジュネーブ議定書で使用が禁止されました。戦争という行為の中で特定の武器だけが残虐かなどいう議論も呼びました。その後のいくつかの戦争を見ると議定書は効果があったのか疑問も残るところです。

 空前の鉄と火薬の大消耗戦は、各国の工業力の体力勝負でもありました。職業軍人に限らない膨大な死者の数と、戦時統制による一般市民の生活も甚大な被害を受け、「戦争は問題解決のための政治的手段のひとつである」というクラウゼビッツの戦争論を遥かに超えるものとなりました。

 敵味方消耗しつくして戦争は鎮火に至りました。ロシアは日露戦争に敗れた上、1917年革命が起こり早々と戦線を離脱しました。ドイツは経済的にも社会的にも混乱の極みに達し、政治は力を失い、反戦運動は頻発し、1919年11月ドイツ帝国は崩壊して共和国が成立します。ヴェルサイユ条約が締結され、11月11日午前11時を期して軍事行動は停止されました。

戦い済んで

 第一次世界大戦では戦勝国側も膨大な国富を消耗し、その規模は敗戦国ドイツが賠償しうるような状態ではありませんでした。報復的な過酷な終戦処理は、後から考えれば次の戦争の火種になるのですが、このときは、誰もが「これで戦争というものは終わった」と信じたということです。

 一方1920年代のアメリカは、大戦への輸出によって重工業が発展し「永遠の繁栄」と呼ばれる空前の好景気を謳歌していました。しかし農業、工業ともに生産性は伸びたが、主たる輸出先のヨーロッパが疲弊してしまっていて、生産過剰が忍び寄っていました。しかし好況時に手に入れたお金がだぶついて、投機熱だけが暴走し、やがてバブルが弾けて、1929年10月24日、ウォール街は突然に株価が暴落し、翌週の29日に生じた損失総額は、第一次世界大戦にアメリカが要した総戦費をはるかに上回るという話です。この暴落に始まる不況は世界中に波及し、その傷跡は第二次世界大戦にまで持ち越されます。

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 社会の波と技術 / 産業は相互に深く関わって、状況次第では制御不能な暴走も生じうるという歴史的な側面のお話をしました。


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