エムエスツデー 2008年10月号

衣食住−電 ものがたり

第7回 地上から空へ

深 町 一 彦

 鉄道・電力・電信、換言すれば、流通・動力・情報の3手段がそろいました。加えて1877年には、グラハム・ベルがベル電話会社(後のAT&T社)を設立しました。輸送手段では、ダイムラーが1890年頃には自動車の量産を始めています。こうして19世紀中に科学技術文明の基盤が整備されました。20世紀初年、1901年にマルコーニが大西洋横断の無線通信に成功します。1903年にライト兄弟の飛行機がノースカロライナの砂丘で離陸します。20世紀は技術が地上から大空に向けて、文字通り飛躍した世紀でもあります。

無線電信

 無線電信はマルコーニが発明したとされています。すでに1864年にマクスウェルは電磁波の存在は予言していました。電気というものが、なにがしかの遠隔感応をもっていることは、ずっと以前から気付かれていました。とくに火花放電の際、離れたところにある磁針が振れる現象などが観察されています。

 マクスウェルの予言を追って、1888年、ヘルツは火花放電の発信装置から離れたところにあるリング状の回路にも火花が誘発され、その感応する電気の強さが場所によって変わること、その強さの分布が波状であることを確認し、マクスウェルの電磁波の予言が実証されました。

 電磁波の存在が確認されると、多くの科学者が一斉に通信に使うことに取り掛かりました。送信機は火花放電が使われました。すでに、コイルとコンデンサで周波数を同調することは知られていました。マルコーニは、火花放電の一端を空高く伸びた針金に接続し、他端をアースすることを考えて通信距離を長くすることを考えました。アンテナという言葉を使い始めたのもマルコーニだということです。もとは昆虫の触覚の意味です。

 マルコーニばかりではなく、比較的近距離の無線通信の実験には、多くの科学者が成功しています。本当の発明者は誰かという論争もあるようですが、マルコーニが無線通信の父と呼ばれているのは、実験に続いて、企業家として、不屈の努力で実用化を進めた実績によるところ大のようです。当時のイタリア政府は無線通信に興味を示さなかったので、海国イギリス政府に働きかけ、航行中の船舶との通信の価値を強調して、早々に無線電信会社を設立します。マルコーニの業績の圧巻は、イギリスで発振した電波をアメリカで受信したことです。1901年、巨大なアンテナを(苦労して立てたものが一晩の嵐で倒れるなどの困難を乗り越えて)、長い歳月をかけて建設し、アメリカ側では凧でアンテナを吊り下げて受信に成功しました。マルコーニは、無線通信という事業に向かって豪腕を振るった勝ち組といえるのでしょう。

図1 高周波発電機(依佐美送信所記念館 保存) 火花放電による送信は、テスラの示唆により安定で大出力の高周波発電機が使われるようになります。やがて真空管の実用期に入ってゆきます。

 日本では1897年、品川と第3台場の間、約1海里の通信実験に成功しています。1903年には、海軍の艦艇に火花送信機を用いて無電装備を行い日露戦争に間に合わせました。

 図1は、1929年、依佐美送信所(現在の愛知県刈谷市)に設置された世界最大級の高周波発電機です。ヨーロッパとの交信の重要度の高まりに応えたものだということです。

無線電信とタイタニック号遭難

 航行中の船舶との交信は無線電信の独壇場でした。とくに海難救急には欠かせないものでした。当初海難信号はCQDが使われていました。Distress Callと呼ばれていました。SOSも通信会社によって混在して使われていたようです。1906年、ベルリンで開かれた第1回国際無線会議で、SOS/500kHzが国際救難信号として決められました。1912年タイタニック号が遭難したとき、電信師は始めにCQDを送信したが、副電信師が気付いて、改めてSOSを送信したといわれています。タイタニック号がSOSを送信した初めての船であるという説もあります。タイタニック号の事故を契機に、各無線局は国際条約により、緊急遭難信号を聴取する義務を負うことになりました。

 緊急遭難信号にSOSが採用された理由は、モールス符号が、SOS(・・・−−−・・・)の方がCQDより送信し易いからでした。もともとモールス符号を決めるとき、エンサイクロペディアから使われている文字の頻度を調べて、使用頻度の高いものから簡単な符号を当てていったということです。

 余談ですが、ピンクレディーの「SOS」という歌には、当初序奏のバックに、この、「・・・−−−・・・」が流れていたが、その筋からの要請があって削除されたとのことです。

無線電話

 電話はベルの発明ですが、ベルが作ったマイクは受話器と同じ構造で、電磁機構で音声を電気に変えていました。真空管増幅がない当時としては、出力が微弱で、遠距離通話には向いていなかったようです。エジソンがカーボン・マイクを発明します。カーボンの粉末が音圧に押されて電気抵抗が変わるというもので、電圧を高くすると出力が大きくなるという便利さがあり、いろいろに形を変えながら、つい最近まで使われました。旧電電公社のダイヤル時代の家庭用固定電話機にも使われていました。

 このカーボン・マイクを、無線送信機とアンテナの間に接続して、直接変調によって音声を送信しようという試みは、1900年頃からありました。1901年には、鉱石に針先を接触させた鉱石検波器が発明されています。一種のダイオードです。同調回路と検波器だけの簡単な構造で、電波から音声が復調できるので、無線通話は利用者が増えてきました。

ラジオ放送

図2 放送開始ころの鉱石ラジオ 鉱石検波器のおかげで受信機が普及すると、それまでの1対1の通話から、不特定の大衆を対象としたラジオ放送が始まります(図2)。1906年、アメリカでフェッセンデンが、クリスマスイブから大晦日までクリスマスソングや聖書の朗読を放送しました。これが最初のラジオ放送とされています。高出力の高周波発電機のアンテナ回路に、直接水冷式のカーボン・マイクを接続して放送したそうですが、今から考えると、危険で向こう見ずな行為でした。目に見えない電波でも大電力に違いはありません。放送局のアンテナ塔の近くでは、手に持っている蛍光灯が自然に点灯するという噂もあります。確かめた訳ではありません。

図3 1925 年(大正14 年)放送の第一声はこのマイクから 真空管発明以来は、高周波を変調してから増幅して放送するようになり、こんな物騒なアイデアはなくなりました。

 1920年、アメリカのウェスティングハウスがラジオ局を開設、最初の放送は大統領選の開票結果だったそうです。

 日本では、1925年、JOAK社団法人東京放送局(現在のNHK東京放送局)が放送を始めています(図3)。

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 放送というものは、グーテンベルグの印刷技術に次ぐ、社会文化の大事件です。放送というメディアは大衆社会に大きな影響を与えます。ナチスの台頭はヒットラーのラジオ演説と切り離せません。1936年、わが国の陸軍の青年将校がクーデターを起こした「2・26事件」では、有名な「兵に告ぐ」というラジオ放送で収束しました。1945年8月15日、昭和天皇が終戦の詔勅を、ご自身で国民に向かって放送され、太平洋戦争は幕を閉じています。こうしたメディアの社会的功罪については稿を改めてお話します。

注)NHK放送博物館:1956年に日本の放送発祥の地「愛宕山」に設立された世界最初の放送専門のミュージアム。歴史・機器展示場のほか、NHK番組公開ライブラリーも開設。所在地 〒105-0002 東京都港区愛宕2-1-1 TEL 03-5400-6900


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