エムエスツデー 2008年9月号

衣食住−電 ものがたり

第6回 通信ケーブルが地球に絡みつく

深 町 一 彦

 先々号では、真空管とエレクトロニクスの始まりの話をしましたが、ここでは、タイムマシンを少し戻して、真空管はもとより、電灯や電気動力が実用期に入るより早く、電池と電磁コイルだけを武器に、通信ケーブルが地球全体に広がり、絡み付いて行く時代のお話をします。

蒸気機関車とともに

 1837年、イギリスで、ホイートストンとクックの5針式電信機が完成します。

 後に、この5対の並列情報送信の配線は、2線式に改良されましたが、やがてモールス通信に座を譲ってゆきます。

 ホイートストンは、電気抵抗を精密測定するホイートストン・ブリッジで有名ですが、このブリッジ回路そのものは、それより先、別の科学者が発明したのだそうです。ついでに、先号でオームの法則の話をしましたが、実はオームは抵抗という概念を完全に確立していたわけではなく、確立したのはこのホイートストンだという説もあります。各国で多くの科学者が一斉に電気というものに殺到していた時代なので、こうした、「本当は・・・」という話はほかにもいろいろあります。

 ホイートストンの電信機は、早々に鉄道会社が試験採用を始めました。蒸気機関車を発明し、鉄道とともに産業化を推進してきたイギリスは、高速な通信システムを必要としていました。

 当時、列車の運行は、鉄道員が線路脇に立って、色塗りの信号板を掲げたり、身振りを使って機関手に指示していましたが、やがて腕木による鉄道信号機に変わってゆきます。電信機の情報に従って、手動で信号機の腕木を切り替えるようになったのは、1850年代になってからです。送信されてきた情報を、高速で走る機関手に人手を介さずにインタフェースするようになるためには、通信技術とは別の技術開発が必要でした。

 フランスでは、鉄道の普及がイギリスより約10年遅れていたことと、先にお話したシャップの腕木信号のシステムが余りに完成度が高く、定着していたことから、電気通信の普及には遅れをとっています。定着したシステムが成熟すると、成熟の効果の反面、新しい技術が遅れるのは、いろいろな局面で見られる光景です。

世界をモールス信号が駆け巡る

 モールスの功績は何といっても、モールス符号にありますが、もう一つの装置の特徴は、電磁石によって針先を紙テープに押し付け、信号に従って窪みをつける(エンボス)記録方式であったことです。

 この発明に先立って、インダクタンスの単位として名を残しているヘンリーが、1829年、鉄芯に絹で絶縁被覆した絹巻き銅線を巻きつけて電磁石を発明しています。今日のように、絶縁銅線が市販されている時代ではなく、噂によると奥さんのスカートを取り上げて、それで絹巻銅線を作ったといわれています。ファラデーとほぼ同じ時期に、米国で電磁誘導を発見していますが、発表が遅れて、今日ではファラデーの功績となっています。1835年には、電磁石を応用した継電器(リレー)を発明しました。気のよい人らしく、いろいろな功績にほとんど特許などとらず、継電器についても、モールスの電信機の完成に多大な援助をしたという話です。この継電器のおかげで、電気通信は一挙に実用性が高まりました。

 たちまちの内にモールス信号は世界を席巻して、遠方でも情報の内容が崩れずに伝達されることから、電話が発明された後々までも、無線通信の時代にまで続いてゆきます。

 わが国には、1854年ペルリが2度目の来航時に、電信機を幕府に献上しました。翌1855年、勝海舟が、初めて日本語で電信を送信したということです(現在の日本語モールスとは違うようです)。1869年には、東京−横浜間で電報の業務が始まっています。1877年の西南戦争では、すでに官軍側には通信掛というのがいて、電鍵を叩いていたという話です。隊長の後を、電線の巻き枠を背負って走っていったのでしょう。

大西洋横断海底電信とケルビン卿

 18世紀から19世紀にかけて世界の海を制覇した大英帝国は、植民地との間の通信網を確立してゆきますが、最後の大事業として、大西洋に電信ケーブルを敷設して、北米大陸と英国(ヨーロッパ)をひとつの通信網の中に取り入れる夢を抱き続けていました。まさに、覇権と通信網の整備は表裏一体のものでした。名乗りを上げたのはホワイトハウス(米国の大統領ではありません)という実務型の技術者でした。彼は、それまでの電磁石と継電器の方式で大西洋横断通信を果たすつもりでいました。

 それに対して、当時の学会の権威トムソン(後のケルビン卿)は、1855年に、長距離のケーブルでは、受信端の電流に遅れを生じることを指摘した「電信方程式」を発表して、大西洋ケーブルに疑問を呈しています。

 トムソンはジュール・トムソンの法則や、熱力学の法則など熱の世界で有名で、絶対温度の単位ケルビン[K]に名を残しています。このときも、金属棒を伝わる熱の伝達速度が金属棒の太さと長さに関係することから発想して、電信波形の遅れと通信速度についても、電線の抵抗と電気容量の積に逆比例することを予測して、距離の二乗に逆比例すると指摘していました。海底に沈む2000マイルの通信は、ケーブルの抵抗も大変だが、海水との間の容量も大きく、伝達遅れも相当なものだったと思います。

 意見が対立していたにも関わらず、なぜか、2人は共同で海底電線を敷設することになり、何度かの失敗の後、1858年、一旦は敷設に成功しています。しかし、遠く離れた受信装置を作動させようとして、電圧を上げ過ぎて(なんと2000Vもかけたという話です)、せっかく敷設したケーブルが1か月で破損してしまい、ホワイトハウスは馘首になってしまいます(本当はホワイトハウスの責任ではなく、ケーブルの品質管理の問題だったらしいですが)。それから6年間、大西洋横断ケーブルは放置されていました。その間、米国では南北戦争もありましたが、英国ではケルビン卿の主導もあって、ケーブルの仕様を確定する抵抗値の標準単位も議論されるようになり、その他の電気の単位の標準にも、功績のあった学者の名前を単位の名称にする慣習はこの頃に始まっています。

 1865年、何度目かの挑戦が行われました。6年間の技術水準の進歩は著しく、敷設と、それまでに海中に沈んだケーブルの回収にも成功しました。受信装置には、ケルビン卿が採用したミラー・ガルバノメータによって微細な信号が読み取れました。

図1 サイフォンレコーダ しかし、実務上は、受信側では電信技術者が暗室にこもって、光点が左右に振れるのを睨み続けていなくてはなりませんでした。モールス通信の特長であった記録が残せないという弱点がありました。

 対策として、ケルビン卿は、ガルバノメータによって駆動する記録計、サイフォンレコーダ(図1)を作成しています。ガルバノメータの微弱な力を、絹糸を介してガラスサイホンのペンに伝達し、インクだめのインクを記録紙に記録させるものです。摩擦は作動の大敵なので、ペン先を記録紙に接触させず、インクを帯電させて記録紙に粉末として付着させるなど、工夫を凝らした世界最初のペン書きオシロスコープ/レコーダを完成させています。まだ真空管も発明されていず、増幅機能を持たない電気通信の時代としては、最高の傑作ではないでしょうか。

 エジソンの白熱電灯ができるのは、それから約10年後のことです。電灯に代表される、いわゆる電気が普及する以前に、電気通信は疾走を始めていました。通信ケーブルは、たちまちのうちに地球に絡み付き、伸びた蔦蔓に覆いつくされたお伽噺のお城のようになってしまいました。

参考文献
松本 栄寿:「はかる」世界、玉川大学出版部
松本 栄寿:インスツルメンツの歴史 5 、雑誌オートメーション


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