エムエスツデー 2008年5月号

衣食住−電 ものがたり

第2回 通信の始まり

深 町 一 彦

 電気というと、私たちはまず電灯を始まりと思いがちですが、実は電気現象の実用化は通信に応用するところから始まっています。

 ボルタの電池が発明されて、定常的に電流を供給できるようになって、数年後には、電気を使って遠方に信号を送ろうという試みが行われています。電流によって磁針が触れる現象を利用しようというものが主でした。なかなか実用には耐えるものが現れず、先に実現したのは、視覚的通信システムでした。

通信システムの基礎 腕木通信

 電気通信の実用化を待たずに、本格的な通信システムの実用化が始まっていました。視覚による体系的な大通信網がフランスで確立されました。大きな腕木のある通信中継所を通信路線に沿って建設するものです。腕木は機械仕掛けで屋内から操作できました。通信士は、望遠鏡で上流側の腕木を確認して、同じ動作を下流に向けて動かして、次々と情報をリレーするものです。もちろん双方向通信が可能でした。伝達速度も想像以上に速く、東京−大阪に相当する距離を10分足らずで連絡できたといいます。

 腕木という機械装置だけでなく、通信システムとして、非常に完成度の高いものでした。今日の通信の基本となるプロトコルが完備していて、きめ細かい通信の手順が隅々まで決められていました。今日のネットワーク時代の基礎は、このときに築かれたともいわれています。

テレグラフ

図1 腕木通信の基地 テレグラフ

 この腕木通信は、クロード・シャップによって開発され、革命の真っ只中の1793年、フランス政府が実験に立会い、採用を決定した国営の通信システムです(図1)。実験の翌年1794年、パリからベルギーとの国境に近いリール市まで、約200kmの通信路線が開通しています。フランスは、革命勃発と同時に、周辺諸国との軍事的な緊張が高まり、パリの中枢と戦場を結ぶ強力な通信設備を必要としていたのです。事実、開通してから一月と経たないうちに、リールの近くの軍事的要衝を、オーストリー・プロイセン連合軍から奪回したという連絡がリアルタイムで議会に届けられ、シャップの腕木通信システムの評価は決定的になります。ちなみに「テレグラフ」という言葉は今日では電信全般を指す一般名詞になっていますが、これはシャップが自分の腕木通信装置に付けた固有の製品名が語源です。

 それから約60年の間に、この腕木テレグラフは、西は大西洋岸、北はアムステルダム、東はベニス、南はスペインと、文字通り四通八達、総通信距離は5,700kmを超える大通信ネットワークへと発達してゆきます(図2)。どうもナポレオンが周辺諸国に出兵するのに随伴して拡大していったようにも見えます。

図2 腕木通信のネットワーク

 その昔、「総ての道はローマに通ず」といわれましたが、ここでは、「総ての情報はパリに通ず」ということでしょうか。情報の伝達が文明の重点としてクローズアップされてきたことを痛感します。

 おりしもフランスを中心とするヨーロッパは大激動の時代で、革命政府ができたり、王制が復活したり、ナポレオンがクーデターに成功して、やがてヨーロッパ中を席巻し、破れ、エルバ島に幽閉され、脱出してまた破れ、セントヘレナ島で生涯を閉じるなどの、歴史に残るニュースの数々がこの通信網を駆け巡ったことが想像されます。

 アレクサンドル・デュマの小説モンテクリスト伯の中に、主人公の伯爵が、ある山中の中継点の通信士を、大金をもって買収して、上流からの信号とまったく異なる動きをさせ、偽の情報を流し、仇敵の銀行家に大損をさせる場面があります。

 シャップの腕木通信の成功に倣って、いろいろな通信システムが各国で建設されました。フランスでも、海岸線沿いには、シャップの腕木通信とは少し違った通信網が海軍によって建設されました。セマホールと呼ばれる、一本の垂直の柱に、何本かの腕木が作動するものです。このシステムの優れていることは、海上の艦艇の旗流信号と交信が可能だったようです。おりしも海上では仏英間で海戦が繰り返され、英国海軍はこのセマホール・システムの威力に悩まされて、徹底的にセマホールに砲撃を加えたそうです。

 鉄道の線路脇でガチャリと鉄の腕が動く、鉄道マニアの郷愁をそそる信号機も、セマホールと呼ばれています。

 電気通信の可能性はすでに予見されていたのに、それを待たず、これだけ大規模な視覚通信システムを完備させたものは、迅速な通信を必要とした「時代の文明の圧力」だったのであろうと思います。

 このシャップの腕木通信システムを可能にしたのは、システムの優秀さはもちろんですが、腕木を楽に操作する操作装置、優れた望遠鏡(基地間の距離は8kmから15kmといわれています)などハードの技術だけでなく、大量の通信士を養成して各基地に定着させた、「国家の社会力」の裏づけがしっかりしていたことだと思います。

 日本ではテレグラフよりも早く、ほとんど同じシステムが、堂島の米相場を遠眼鏡と旗で伝える「旗振り通信」が民営によって確立していました。

電気信号の時代

 電気による信号伝達の実用化は、いろいろ試みられたにもかかわらず、安定したものができず足踏みをしていました。1837年、イギリスでクックという退役軍人とホイートストーンが、磁針が5本ある電信機を作り電信会社を作りました。並列伝送で、当然配線は10本あったはずです。この信号機ははじめ鉄道会社で試験的に採用されました。イギリスは、早くから鉄道事業が進んでいて、鉄道事業の運営に通信システムは欠かせない、文字通り車の両輪でした。

図3 モールス信号を打電する電鍵

 ところが同じ年、1837年、アメリカでモース(Morse)が画期的な電信機を作りました。ハードウェアはすでに発明されていた電磁石ですが、通電時間の長短の組み合わせによって、文字や記号を点と線で符号化して直列送信するもので、日本語ではモールス(Morseのローマ字読み)信号と呼ばれています(図3)。このモールス式の符号は、遠方でも信号が読み取れることから、無線電信の時代にも長く使用されてきました。日露戦争のとき、「敵艦見ゆ」と打電された無線電信も、「トラトラトラ」もモールス信号で打電されたものです。その後、通信技術の進歩により、モールス信号は次第に使われなくなりました。

*   *   *

 電気を使わない通信システムに寄り道しましたが、通信システムというものは、腕木か電気かという媒体とは独立した、人の思考が作り上げた文明の産物で、今後ともいろいろな技術の上に乗って増殖してゆく、バーチャルな生き物だと思っています。


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